活字を利用する事の有効性と生活に与える影響について

 


 僕は、かれこれ、もう、おおよそ7年間読書をしている。僕は読むのがとても遅いので量は早く読める人と比較すると少ないはず。この7年という歳月は、僕の行動を大きく変えてきたし、あらゆる物事に関して様々な見方を与えてくれたり、時には、社会的に見て、あまりよろしくない、アダルトな情報も僕の中に入ってきた。でも、僕らは人間だし、決して学校で教わることだけでなく、もっと身近で、少し何気ない日常が楽しくなるような、人生のスパイスとでも言うような視点を与えてくれる。ここが、読書の醍醐味だと僕は思う。もちろん、過去に観たことのない漢字の勉強にもなるし、初めて聞いた語句も出てきて僕らの成長を助けてくれる。

 想像力とか文章が示唆するものやそれぞれの観念が、僕の視野を大きく広げたし、それらの知識が、他人の役に立つことも多い。また逆に、僕の持っていた良いところを奪ったのも事実だ。しかし、僕らはいつまでも、同じ人では、いられない。年齢と共に向上して行くことを社会からは要求されるのだ。
 その向上する先に何があるのか? 目的が、その人の行動を決める。その目的地は、千差万別,百人百様だ。 目的もなく読むスタイルも嫌いじゃない。時間の有効活用にもなるし、待ち合わせ場所に早く着いてしまった時にもカバンに一冊入れておくと時間を潰せる。

 活字を読み始めて、僕が変わったのは、街中で見かける注意書きに目が止まるようになったことだ。本を読まない時と比較すると直ぐに眼に入るようになった。抵抗が少なくなったんだと思う。それに人の話を良く聞けるようになったと自己分析している。
活字離れが進んで、本の売れ行きも芳しくないというニュースを聞くけど、売れる本は、売れている。映画も元々は本だし活字だ。テレビのニュースやテレビ番組の特集なんかも新聞やウェブ上のものを映像化しているものだ。それらが悪いとは決して思わないし、良いものだと思う。ただ、その情報の濃度としては、本のほうが濃いものであるし、時間もかかる。

 継続は力なり というけれども本当にそう思う。続けることは、大変だし、短気な僕にはなかなか難しい事柄でもある。なぜ、続けなければならないのか?そんなの自由じゃないか?と若いときは思っていた。けれども、今になって思うのは、続けなければ大成はできないし、ある程度の物で終わってしまうということを意味する。更にいえば、その事をやめて、新しい事を始めるということは、また0から始めなければならない事でもあるからだ。それまで、やってきたことを捨てて、新しいことに挑戦するならば、今までやってきたことをもう1度0から始める方が理論的には正しいと思う。

 勿論選択肢は、自分の中にあるし新しい事を始めるのは、とても良い事でもあるけどね。こだわりって言うのかな。世の中には沢山の人がいるし、すべての人と同じ価値観を共有する事は、多様化した現代では、少し難しいのかもしれない。